26見た目のよい野茂知紘は自分の好みにぴったりで、おまけに彼の方から 粉をかけてくるのだから寂しい女からするとひとたまりもない。この時の真知子にしてみれば、心も体も慰めてくれる人なら 最初はただの浮気相手でもよかった。 友人に忠告されなくても、婚活はしていた。だけど、結婚相談所で紹介された相手とは、とてもじゃないけど 恋愛の『れ』の字も介在しないのだ。見合いなのだからと言われればそれまでだが、恋愛結婚を経験し、 恋愛体質の真知子には空し過ぎた。 この三か月余り、激しく自分にのめり込んでいる知紘を見ているうちに、浮気相手でもよかったという想いが、結婚を望んでもいい相手に変わった。そう真知子に思わせるほど知紘は彼女にメロメロだったのだ。だから……思わず訊いてしまった。 「私とのこと、どう思ってるの? 奥さんと別れて結婚? なんてしてくれたらうれしいなっ」正直結婚までは考えていなかった知紘は驚いた。 だが相手に積極的に請われ、だんだんその気になる知紘。「そうだね、でも俺の奥さん仕事も家事も……特に料理も上手くて頑張 ってる人だから、簡単にはいかないかな。少し、時間が必要だよ」 『えっ、ダメ元で聞いたのに可能性あるんだ』 「ありがとー。……っていうことは、結婚の可能性あるんだよね。 どーしよう。うれしいー。1年や2年ならぜんぜん私、待てるから。 知紘くんのこと好きだもん」 急に結婚を請われて深く考えもせずに答えた知紘は、うれしいーだの、 知紘くんのこと好きだもんなどと言われ、ますます舞い上がるのだった。ただ、この時も美鈴との離婚は現実的ではなかった。その場の出まかせとまでは言い切れないが、浮気の延長線上のもので、 まぁ言うなればピロトークのようなもの、その場限りのリップサービス ……の域を出てはいなかった。
27「私ね、実はお話してないことがあるんだー」「何かな、どんなこと?」「私……3才になる息子がいるの。 結婚の話が出たから隠さずにちゃんと話しとくね」知紘は息子がいると聞いて驚いた。 今頃になって子供がいる話をするなんて詐欺じゃねーか、そう思った。ヤバい、非常にヤバい。 真知子から子供がいるという話を聞いた途端、知紘は及び腰になるのだった。しかし、今まで散々綺麗だの可愛いだのと褒めちぎり、食事に洋服、 アクセサリーだのとたくさんの金もつぎ込み惚れてるよパフォーマンスを 散々しておいて、ここで急に潮が引くようにデートするのを止めてしまったら、 どんなことになるか想像するだけで怖ろしい。 騙されたと野球チームの皆や妻の美鈴、果ては会社にまで自分たちの関係を 暴露して回られた日にはオワリだ。 このあと、頭が真っ白になり何も考えられなくなった知紘は、曖昧な笑みを 浮かべ真知子の話に相槌を打ち、身の入らないおざなりな真知子との性行為 を済ませ、そそくさといつもより早めにデートを切り上げて家に帰った。 ************* 子供の話をした途端、明らかに挙動不審になった知紘に……。『あ~、結婚は難しいかなー』とガックリきた真知子だった。本人は一生懸命取り繕っていたが、見ていて痛ましいほど無理しているのが 分かってしまった。それは会話のあとに繰り広げられた性交ではっきりと分かった。そんな知紘の様子にショックを隠せなかったが、ある程度覚悟はあったので 真知子はその日、少しの傷心を抱えて帰路についた。 真知子から自分には息子がいると聞いて知紘の頭の中に浮かんだのは、 今まで夢中になっていた真知子との性交渉についてだった。思わず吐き気を催してしまった。赤ん坊が出てきた場所で……その赤ん坊を作る行為をするため他の男の モノが何度も侵入した場所で、そこに自分のナニを喜んで抜き差しして いたという事実に今更ながらに気付いたからだった。この時が、知紘の中から真知子マジックがなくなった瞬間だった。
28それから2~3日、知紘はこれからのことをどうすればいいのかと、 ない頭を振り絞り、ある計画を立てた。 知紘の学生時代の友人に筧優士《かけいゆうし》というめちゃくちゃ 女にモテるヤツがいる。確か今、付き合ってる彼女がいるはずだが、奴の場合学生時代から 二股どころか4人と付き合っていたこともあるという猛者だ。知紘はこの筧に賭けてみようと思った。 そう、真知子と後腐れなく別れるために筧という餌を撒くことにした のだ。もし真知子に子がいなければ、万に一つ美鈴の代わりにと考えなくも なかったが、子供がいるとなると万に一つもさえもあるわけがない。実の子さえ経験値がないのに、他人の子などもってのほかである。間もなくして、カップルの友人たちと筧、そして自分と真知子という 組み合わせで一泊二日の旅行を計画し、実行した。筧にはわざと彼女を連れて来るようには知らせなかった。 流石、筧は筧だった。俺が真知子との結婚話に積極的でないことを薄々感じていた彼女が、 筧に靡くのは早かった。別に何かを真知子に聞いたわけでも筧に聞いたわけでもなかったが すぐにピンときた。 真知子が筧たちとの旅行から帰ると、それ以降野球サークルのある日に 彼女がピタっと来なくなったからだ。勿論、彼女からの連絡も一切ない。 俺もそれ以降真知子には連絡をしていない。たぶん、このまま彼女とのことは上手く自然消滅できるだろう。
29つい先だってまで、自分の持ちうる全ての時間と気持ちを愛しの真知子ちゃんに注ぎ込み捧げていた夫の知紘の様子がおかしいことに美鈴は気付いた。何かの理由があってのことか、ただ単に飽きたからなのか知る術はないが、野球以外で外出がなくなった夫。何かと以前のように話し掛けてくるようになった夫に、美鈴はもはや何の感慨もおきはしなかった。今更だ。もはや、夫の気持ち《自分に向けられる好意》などほしいとは思わない。いらないのだ……。現状、夫の分の家事は最小限に留めている。洗濯はするがアイロンがけはしないし、取れかかったボタンがあっても知らぬ振り。料理だって最低限のものを食卓にそれらしく並べるだけ。夫のために貴重な自分の時間を取られるなんて真っ平。専業主婦とはいえ、独身の頃から手掛けているイラストの仕事も忙しいので、なまじ嘘というわけでもなく、手の込んだ料理ができない理由に『仕事が忙しい』という言い訳はさほど苦しくない。美鈴の父親は美鈴が知紘と結婚したあと、一年もしないうちに不運にも事故死してしまい、その後母親は縁あって従兄《正吉》と再婚し、正吉《まさよし》の暮らす五島列島のうちのひとつ、五島市へと嫁いでいった。関西に住む美鈴たちと遠方に住む彼らとは話し合いの上、お互いにしんどいことは止めようということで、現在通信機器で連絡は取るものの行き来はしていない。このような家庭環境にいる美鈴なので、仮にふらっとしばらく旅に出ますと言い置き家を出ても、知紘は美鈴を探すのに何の手がかりも持ってない状況だ。まだ綺羅々にも相談というか、話していないことなのだが、美鈴は家を出ていくつもりでいる。あれほど仲良く暮らしていたパートナーから、突然冷たく突き放され3か月にも亘り自分の存在を無視され続けてきたのだ。信頼が崩れた以上、この先とても一緒に暮らしていけるものではないし、何より知紘に対してもう気持ちがないのだ。いくら考えても、この先妻としてやさしい気持ちを知紘に向けることはできそうにない。そして、愛情もない。だから結論……一緒にいる意味がない。自分が家を出ていく前にもしも知紘の気持ちが自分に戻ったら、と考えないこともなかったが、考えるまでもなく知紘が擦り寄ってきそうな雰囲気が見受けられても彼に対する自分の気持ちが戻ることは
30父亡きあと、美鈴の母親は従兄の正吉と再婚し、五島市へと移り住んでおり遠方故親子は双方納得の上、行き来をしていない。このような状況でもし美鈴がある日突然自宅からいなくなったとしても、おそらく知紘には探しようがない状況になるだろう。美鈴には住民票を移さずに、ひょいと別荘にでも行くようなノリで長期間滞在できる箱《古民家》があった。母方の祖父から母へそして美鈴へと相続した家があるのだ。母親が再婚するにあたり早々に美鈴に名義が替えられたのである。これについては知紘の知らない話で、美鈴がそのような家に住むなどとは想像もつかないだうろ。家の存在そのものを知らないのだから。美鈴が知紘の目の前から居なくなれば、知紘はその古民家どころか下手をすると美鈴の母親の暮らす場所さえ知ることはできないかもしれない。この祖父母や母親が過ごした家は、両親が住む家から1時間足らずで通える場所に立地しており、美鈴は結婚して今の住まいで暮らすようになるまで週末や夏休みなど別荘代わりに両親と共に使っていた。両親は娘が家を出てからも、家の手入れも兼ねて従来通り定期的に通っていたので古民家とはいえ、手入れが行き届いていてきれいなままの状態で残っている。そして母親が再婚するにあたり、古民家は美鈴へと生前贈与されたわけだが、美鈴にとっても愛着のある家で、今の家からは往復2時間半かかるが平日に朝一番で家を出、風通ししたり植物の手入れをしたりと、大事にしてきた。いずれは知紘と共に終の棲家になれば、などと考えていたが、こうなってしまったからには、それは無理というものだ。ほとほと知紘に嫌気がさし離婚して知紘の顔など見なくても済むようになりたい、そんなふうにフツフツと考え始めた時に閃いたのが、この祖父母から譲り受けた古民家のことだった。
31 美鈴は真知子や知紘から、証拠さえ掴めば慰謝料が取れるということはインターネットなどの情報から知ってはいた。弁護士を探し相談、そして調査会社に依頼して証拠集め、もしくは自分で証拠を 集めるなどして慰謝料を請求する、更に離婚となると財産分与、年金分割なども 請求できる……そのようなアドバイスが大半だったが、はっきり言って面倒くさいことが嫌いな性格の上のこともあるのと、そこまでいろいろと行動する憎悪のエネルギーが美鈴にはなさ過ぎた。だからといって、これまでほとんど専業主婦の体で暮らしてきた自分が知紘と離れて暮らすというのを第一目標にした場合、どうすれば自分にとって最善か、それはちゃんと考えた。それは今もこの先も結婚はもうしないだろうということが前提になっていて、最後まで離婚を伸ばせるだけ引き伸ばし、尚且つ知紘とは別居するという形だった。保険や年金のことを考えると夫の扶養に入っているほうが断然助かるので、少なくとも生活の基盤が整うまでは、自分からは離婚の話を持ち出すのは止めようと決めていた。古民家暮らしでは畑と広い庭があり、野菜が作れて、BBQ《バーベキュー》だってできる。レンガを積み上げてピザ窯を作ればピザだって焼ける。この古民家への移住を考えるようになってから、美鈴はよけいに知紘や真知子への復讐などどうでもよくなった。今や、ワクワク感が堪らない。離婚不受理届けを市役所の窓口に出し、固定資産税の支払いに関する連絡先の住所を変更し、後は、『しばらく1人になりたい』と置手紙を残し、保険証や年金手帳、クレジットカードなどの貴重品は鞄に詰め、自分の居場所を探せるようなもの(母親からのハガキなど)の痕跡を消し去り、知紘の前から去るのみ。一種の卒婚のようなものだ。困窮したら、生活費も頼んでみるつもりでいる。ちゃっかりできるところは遠慮しない。とにかく、どうなるか分からないがやってみなければ始まらない。知紘が姑息にも筧に真知子を押し付けて別れた翌月の末に、1か月間準備を進めていた美鈴は知紘には置手紙ひとつで家を出た。母親には手紙で知らせておいた。『知紘が私のことを探して、どこに行ったか知りませんか、という問い合わせが 万が一あった場合、知らないと話ておいてください。困った時は必ず連絡をするので、私のことは心
32知紘は真知子と出会ってからというもの、妻の美鈴をうっちゃり、 彼女のことを過激に溺愛。しかし、ふたりの間に結婚話が出たことから彼女には子供もいると知り なんとかスムーズに別れる方法はないものかと無い頭で考えた末、数人での 旅行を思いつき、やりチンで知られている友人、筧優士を誘い、真知子を 上手く譲渡することに成功。 ◇ ◇ ◇ ◇筧は真知子と付き合い始めた時には、彼女の心変わりから自分と付き合う ようになったのだとの認識だった。だがその後、ピロトークで真知子から知紘との話を聞かされるうちに、自分 が知紘から意図的にお下がりとして真知子を押し付けられたのではないかと 思うようになった。 真知子が自分に靡くようになった時から筧は不思議に思っていた。自分が常に何人もの女と付き合うようなヤリチンだということは 学生時代の友人たちなら誰でもが知っていることだ。 だから、大切な彼女のいる連中は絶対自分が参加する場には連れてこない。 そんなわけで最初、真知子が知紘にとってただの浮気相手だから 連れてきたのだろうと思っていた。 知紘のヤツは今の奥さんである美鈴と付き合っていた頃は……というより、 結婚後も俺に会わせたことはただの一度もない。それほど大切にしていた奥さんがいるのに浮気してんのか? と驚いたよ。それにしてもだ、真知子があっという間に知紘との連絡を絶っても真知子や 俺に文句の一つも言って寄越さないとは、ただの浮気相手だとしても一応 自分の彼女なわけで、どんだけヘタレなヤツなのだと思っていたが……。 聞くところによると、真知子との間に『結婚話』が出てたっていうじゃないか。 なんと、それが俺たちが複数カップルで出かけた旅行の ほんの一週間前の話と聞けば……馬鹿でも推測できるだろう。
33大体旅行先にいい女がいるかもしれないからと、俺には一人での参加を要請しておきながら、知紘と真知子のカップルともう1カップルとで参加って、あの時は深く考えてなかったけど、知紘は俺に真知子を押し付ける気満々だったってわけだ。真知子の話から見えてくるのは、美鈴さんのことはうっちゃり、随分と知紘は真知子に入れ込んでたということ。結婚の話が出た時も、積極的ではないにせよ、考えてみるというような雰囲気ではあったらしい。……で、真知子曰く『優士くんに出会って知紘には悪いが心変わりしちゃって』ということらしい……が。あの時の旅行を計画したのが知紘なのだからあれだろ、真知子が俺に靡くのを見越して体よく真知子をお払い箱にしたのは明白だ。そこで俺は考えてみた。奥さんを蔑ろにしてまで執着していた女を切ると決めたその理由……。男と女のことに関しては百戦錬磨の俺様、ピーンと閃いたね。たぶん、真知子には借金があるだとか子供でもいるのだろう。兎に角知紘にとって何か都合の悪いことがあるのだろう。まぁ、結婚抜きでしか付き合わない俺には関係ないけどな。そうそう《そんなにたびたび》学生時代の友人との間で女性関係含め揉めたことはないが、今回のことは少し腹を立てている。真知子の戯言を聞くまでは逆に知紘に対して、人の女を取ってしまい申し訳ないなどと、ほんの少しの罪悪感を持ったのだが……この俺様に自分の使い古していらなくなった女を意図的に押し付けてくるとはいい度胸してるじゃないかと、そういう考えに変わった。少し奴に灸を据えないとな、俺のプライドが許さねぇ~。俺は真知子に再度、知紘との付き合いを話題に持ち出し、真知子がどんなに酷い目にあったのか、奴がどんなに酷い男かということを刷り込みした。『結婚しようと言われていたのに裏切られて捨てられた』と知紘が所属している野球チームの連中や会社にも言いつけた方がいいと、俺は真知子を焚きつけた。俺の焚きつけ話をじっと聞いていた真知子が俺の意見に首を縦に振った決定的な言葉、それはこの一言だった。「慰謝料が取れるよ、この話」真知子の方でも薄々知紘が逃げ腰になっていた気配をそれなりに感じていたのかもしれないな。様子からして知紘のことは吹っ切れて見えた。 ******俺は忙しくしていて
84俺は知らないことにして尋ねた。だって、薔薇の部屋で勝手に覗いて読んだなんて言えないよ。「言って、それが何だったのかはっきり教えてくれないか」「綺羅々と奈羅が一夜を共に過ごしたと分かる映像が透明タッチパネルに送られてきたの。すごく悲しかった。私も綺羅々のこと好きだったから」もしもここで何も知らずに真実を知ったならと思うときっと、なんと怖ろしや、自分は混乱してしまったことだろうと思う。やはり、自分の知らないところで薔薇は苦しんでいたのだ。しかし、そうは思うもののせめて薔薇が自分を責めてくれていたら……と、到底無理なことまで考えてしまう。なんであの日酩酊状態になるまで酔っぱらってしまったのか、自分。なんで、もっと早くに薔薇に好きだと口に出して言わなかったのか。考えても考えても、後悔ばかりが襲ってくる。僕たちは奈羅の手によって両片想いを断ち切られていたのだ。しかも、薔薇も自分と同じ気持ちでいてくれたことを知った今では奈羅の所業は許せるものではなかった。そして薔薇を傷付けたことも到底許せはしない。「ただ酔っぱらって寝てただけなのに、君と僕の仲を裂くために奈羅が何かあると勘違いしそうな映像を君に送ったんだ、きっと。それが真相。あれから僕は君を上手くあの時の時間軸の金星にどうにかして連れ戻したくて、長老の所へ行き勉強してきたんだ。さぁ、まだ間に合うから僕と一緒に行こう」「綺羅々、ごめんね。私、ちゃんとあの時あなたに向き合えば良かった。でも好きだったあなたに奈羅とのことは本当にあったことだと……奈羅のことが好きだと言われるのが怖かった。本当に好きなのは彼女で私とは軽い気持ちで飲みに誘っただけだと知るのが怖かったの。早とちりして、地球に逃げてしまってごめんなさい。こんな私の事を長い間待っていてくれてありがとう。だけど……」「だけど?」
83 ―――――――――― 夫からの今際の遺言 ―――――――――「古の契りを結んだあの時よりも、一緒に暮らせた今生でもっともっと君を 好きになった。 今までこんなに人を愛したことはない。絶対次の世でも一緒になろう。 もしも、美鈴がはぐれてしまったとしても僕はまた何年、何十年、何百年か かろうとも這ってでも君のところまで迎えにいくよ。だから待っていて」『―――――― で待っていて』と夫は呟やきあの世へと旅立っていった。 ―――――――――――私は子供たちに見守られながら、現世を離れた。 今はあの世と現世の狭間にいる。 先に逝ってしまった夫は今どこにいるのだろう。 いないはずの夫の姿を探していたら見知った顔が近づいてきた。「綺羅々、どうして……」 「薔薇《美鈴》、君が誤って地球に生れ落ちてしまった時は本当に つらかったよ。 どうしてあんな場所に連れていったのかと自分を責めもした。 それで長い間君が地球での一生を終えるのを待ってたんだ。 迎えに来た。どう? 金星にいた頃のこと思い出した?」「どうして地球に来て私を慰めてくれたの? そしてどうしてこんなところで私を待ってるの?」 「薔薇のことが好きだからさ」「そうだ、私、薔薇って呼ばれてたのね」「思い出せたんだ、良かった」「でも、あなたは奈羅のことが好きだったんじゃ……なかったの?」「違うよ、僕は君が……君のことが好きだったんだよ」 「嘘っ。私はあなたに振られたと思い裏切られたような気持ちになって、 それが辛過ぎてあの日、わざと滑り台の上から地球上に滑り降りたの」「どうしてそんなふうに思ったの? あの日は酔い過ぎて失態を晒してしまったけど、僕は薔薇と初めていっぱい 話せてすごくうれしかったのに」「だって……奈羅から見たくなかったものが送られてきたのよ」
82美鈴と圭司夫妻は、結婚して2年後に娘を授かった。そして、そのまた2年後に息子を授かり、彼らは4人家族となる。結婚後、立て続けに2人の子供に恵まれた美鈴は、元々在宅仕事をしていて融通が利くため、下の子が4才になるまでほぼ専業で暮らした。なので、贅沢はできなかったが、休日になると圭司が子育てや家事をできるだけフォローしてくれ、ストレスが溜まりがちな子育ても楽しみながらでき、2人の子供たちに思い切り愛情を注ぐことができたことは、非常に喜ばしいことだった。そして、いつも美鈴のことを気遣い子供たちにも愛情をたくさん注いでくれる圭司との暮らしは、美鈴にとって夢のようでもあり理想的な人生となった。好き合って結婚した相手から裏切られるという経験をしていた美鈴は、再婚にあたり実は少し不安を抱えていた。どんなに誠実な人でも心というものを持つ人間には、心変わりというものが常に付きまとい、誰がいつ新しい出会いで気持ちに変化が訪れるのか、誰にも分からないものだから。 ***やがて、子供たちそれぞれに愛する人ができ、彼らが家庭を持った時、美鈴は感慨い深いものを感じた。私と夫はまだ今でも信頼し合い愛情を持って一緒にいられる。これは本当に幸せなことだわ、と。そして、家から子供たちが巣立ち、また元の2人の暮らしに戻り日々の暮らしを積み重ねる日々の中で、1日また1日と夫と仲睦まじく過ぎてゆく日々に感謝と喜びを胸に刻み続けるのだった。 ◇ ◇ ◇ ◇そのようにして2人の愛しき人生はその後も続き、85才で圭司は天寿を全うし、美鈴もあとを追うようにして2人の間にもうけた息子と娘に看取られて、88才老衰で長患いすることなく別の次元へと旅立っていった。 ――――――――――――――――――西暦2022年からお話は始まっていますので、根本圭司が亡くなるのは――2077年頃 根本美鈴が 〃 2075年頃 すごいっ、どんな世界なのでしょう。 ――――――――――――――――――
81大好きな男性《ひと》の肌に触れ続けていくうちに、声にして出《だ》そうなんて思ってもみなかった言葉がいつの間にか零れ落ちる。「あなたが赤ちゃんだった頃、ヨチヨチ歩きを始めた頃、たどたどしく話ができるようになった頃、運動会で走っている姿、学生服を誇らしげに着ている姿、大学生のあなた……どのあなたも見ておきたかった。私を見つけてくれてありがとう」そう告げながら美鈴はいつの間にか圭司の背中に全身を預けて、そして泣いていた。この時の美鈴の心情は、恋人としてだけではなく母性の加わった母親でなければ感じられないような域にまで達していた。それまで美鈴の下で心地良さとともに美鈴の重みに耐えていた圭司が美鈴を抱きかかえるようにしてグルリと身体を動かし2人の位置が反転した。圭司が美鈴を組み敷いた格好になり、美鈴の目に溜まる涙を親指の腹でひとすくいしたあと、近くにあったティッシュを渡してくれた。「ありがと。君のやさしさが心に染みたよ。幸せなのにすごく胸が苦しい。この苦しさを解放したいな」そう言うと圭司の口付けが、美鈴の顔の上に落とされ、やがて口元へそして最後に唇へとやってきた。幾度となくはまれ、ついばまれ、美鈴は切なさと喜びが綯《な》い交ぜになり何も考えられなくなる状況の中、されるがまま圭司の行為を受け入れた。この夜のことは、二人にとって生涯忘れがたく素晴らしい時間になったことは言うまでもない。このようにして、この旅で互いの絆をより一層深めて帰路についた2人は、バタバタとその後、それぞれの遠方に暮らす両家の親に挨拶に行き、結婚式も挙げず記念撮影のみで籍だけ入れて結婚を済ませた。
80 「有難いけど……君よりデカい僕の身体を抱くのは難しいんじゃない?」 「そうなの、そこが大問題なんだけどでも抱きたい。 どうしたらいいかなぁ~」「じゃあさぁ、取り敢えず君の前に滑り込んでみようか」「うん」 『馬鹿だなぁ~そんなの無理だよ』とか一刀両断せずに、協力してくれる 彼に私は増々恋心と切なさとを募らせた。私の両脚の間に座った……座ってくれた彼、疲れるだろうに程好い加減で 私に半身を預けてくれる。 到底私が腕を回しても両手を組めそうにもない彼の身体を後ろから抱きしめる。 私は彼の逞しくてきれいな肌の背中に顔を埋《うず》めてみる。「いい匂い……石鹸の匂いがする」「いい気持ち、背中でいい気持ちになったのは初めてだよ」「「ふふっ」」 「ありがと。この体勢だと圭司さん疲れるでしょ。 あのね、ほんとに気持ち良くなってもらいたいから今度はうつぶせ寝に なってください」私がそう言うと、うつ伏せの体勢になるため起き上がった彼が、座っていた 私の手を取り、立ち上がらせてくれた。 そして「じゃあ僕も少しの間ハグさせて」と言い、私はしばらくの間 彼に抱きしめられた。そしてそのあと、彼はベットに横たわりうつ伏せになった。「えーっと、今から私がすることって私にとっても初めてのことだという ことを知っておいてください。他の誰にもしたことがないことをさせていただきます」 『誰にでもするような変な女と思われたくなくて先に断りを入れた』「うん」圭司さんは俯いたまま返事をくれた。 今からしようとすることを考えると、こちらに視線を向けられなかったこと は有難かった。私は彼の腰辺りの位置に両膝をついて彼を愛でていくことにした。まず彼の肩から腕にかけて何度も両手で撫でた。背中、腰にも手を延ばし、マッサージを続ける。 「気持ちいい……」と言う彼の呟きが聞こえ嫌がられていないことを知り、 続けてそのまま愛でるように首筋から始まり腰までを、何往復も両手で緩急 をつけマッサージを続けた。
79◇その時がきた私たちはこれまでのようにまったりと2人の時間を紡いでいた。いつも会っている時は彼の存在を感じて幸せだった。そして別れ際におでこに軽いタッチのキスを落とされたことは二度三度あったけれど、そこ止まりの付き合いが続いた。そうそれは、まるで学生のような清い付き合い方だった。そのせいか週末会える時は、1週間分のトキメキとドキドキ感が半端なくいつかその日を迎える日がくれば、自分はどうなってしまうのかと不安を感じるほどだっだ。そんな中、いつものように近所回りを散歩して私の畑に差し掛かった時、圭司さんからゴールデンウイークに海外への旅行を誘われた。国内をすっ飛ばしてのいきなりの海外旅行に少し驚いたけれど、うれしかった。3泊4日くらいで行くことになり、私たちはその日を楽しみにお互い仕事や家事を頑張りその日を迎えた。――――――――――― 初めての夜 ―――――――――――旅行先の1泊目はお疲れ様タイムということで嘘のようだけど、友だち関係のように長年連れ添った夫婦のように疲れをとるため、お休みのキスだけをして静かに 就寝した。そして翌日はクイーンズタウンで観光を楽しみ、早めにホテルに戻った。今宵こそは私たちにとっての初めての夜で暗黙のうちに迎えた瞬間、その時はきた。 ◇ ◇ ◇ ◇先にベッドに入っていた圭司さんからシャワーを終えたばかりの私は『おいで』と手招きされる。私はドキドキしながら彼の横に滑り込む。彼がすぐに手を握ってくれた。「こっち向いて」「何か恥ずかしい」そんな言葉を口にしつつも私は言う通り彼の方を向いた。するとゆっくりと彼の口付けが私の唇に落とされた。それは軽くそして深く、互いの唇が重ねられていく。彼が私を見て微笑んでくれ、このタイミングを逃さず私は自分の切なる望みを口にした。「私、あなたを抱きたい《肌を合わせたい》全身全霊で」
78引き続き、2月も畑を耕す作業は続いた。そして今日も、私は相変わらず彼が耕運機で再度作業している横で、チマチマと畑の端で雑草抜きをした。今日もこのあと2人で夕飯を摂る。朝のうちに仕込んでおいた炊き込みご飯とお豆腐とネギ、ワカメ入りの味噌汁、さわらの塩焼き、きゅうりとわかめ、おじゃこの酢の物が作業後に待っている。耕運機から降りてきた圭司さんと雑草を一通り抜き終えた私は「「お疲れ様」」と互いに声を掛け合った。しばし、私が空気の冷たさに手をこすっていると、彼が上から大きくて暖かい両手で包み込んでくれた。「えーっ、あったかい。どうして?」恥ずかしさを隠して私は彼に訊いた。「子供のように身も心も純真だからだよって言ったら聞こえはいいけど、心が単に子供なんだよ」「あっ、分かった。幼稚ってこと?」「そういうとこ……」話ながらいつの間にか、私はすっぽりと彼の腕の中にいた。『ずっと、こうしてたいな……』私は何て言えばいいのか分からなくて空を見上げた。「茜色の空がきれい……。とても幸せです」そんなふうな言葉がきれいな夕焼け空に感化され、口をついて出てきた。すると、圭司さんが私の頭の上にそっと顎を乗せて「僕も……」と言ってくれた。その瞬間不思議な感覚に襲われた。宇宙からそのまま地球に向かって、地球上の畑にいる私たち恋人同士をズームインして俯瞰されている気分になる。その視点は私の肉体を超えた存在だと感じる。初めての体験に私は心震えたのだったが、このあともっとすごい感覚を体験することになった。もともと根本さんには好感を持っていたし、自分たちが今生結ばれる縁だと知らされてからどんどん好きになっていったのは確かだけれど、一緒に夕飯を摂っている時にそれは……その感情は突然訪れた。私の心の臓が、もとい、私の心臓が俄かに騒がしくなってきたのだ。根本さんの食事をしている様子を見ているだけで恋しい気持ちが募り、そのあまりの気持ちの強さに私は落ち着きを失くす。彼を抱きしめて……頭も肩もその背中も腕も、全て自分のものにしたいなどという、襲ってしまいたいという欲情に付き動かされることに。こんな怖ろしい初めての自分《私》の感情など知る由もない彼は、いつもの通り紳士的な振る舞いで時をやり過ごし、車で帰って行った。どうしてこうなった
77 年が明けて1月は寒かったので、どちらかの家で過ごすことが多かった。そんな中、ドライブを兼ねてお寺巡りなどもした。そして2月の初旬の土曜日にはウォーキングをして、なまった身体を引き締めようということで、寒い中、その辺を散歩することになった。7~8分歩くと、ちょうど草ぼうぼうになった我が家の畑の側を通ることになる。足を止めて、私は根本さんに言った。「ここ家《うち》の畑なんです。数年前までは母の知り合いに野菜を栽培してもらってたのですが、その方もご高齢で足腰が弱ってきて作れなくなってしまって……。そのあとは若い人の知り合いもいませんでしたし、私もここからすぐに通えるようなところに住んでなくて、その上、そのあと父が亡くなり母親は再婚して遠方へ嫁いで行き、というようになって、結局畑は今のような状況になってしまいました。でも落ちついたら少しずつでも野菜を作ってみたいなぁなんて考えてはいるんですけど、広くはない畑ですがそれでも私一人だとちょっと手に余りそうな感じです」「野菜をもう一度作るための土にするのは手作業だけではできないですからね。家に車で運べる小型の耕運機があるので今度持ってきますよ」この日そんなふうに言ってくれた根本さんは翌週、約束通り畑まで運んでくれてその上、自ら畑をその耕運機で耕してくれた。今年は畑の回復を目指し植え付けをせず、自宅の庭や公園などで拾ってきた落ち葉を梳き込み除草剤は使わずに定期的に耕していけば、雑草の根も繁殖せずに秋には枯れた形になり、土と落ち葉も撹拌《かくはん》されるので来年は良い土壌になるんじゃないかと考えている。ということで、植え付けは来年までのお楽しみだ。何を育てようかなと考えるだけでもあぁ楽し。こうして1月のデートは畑の土壌作りに終始した。そして作業終わりには我が家でのまったりお家ごはんに会話タイム。
76私は翌日早々に離婚届を出しに行った。昨夜、よほど根本さんにもう夫から離婚届を受け取っていて、あとは出す だけであると話そうかと思ったのだが、やはりちゃんと届けを出したあとで 正式に離婚し、何のしがらみもなくなってから伝えた方がいいように気が して、話せていない。できるだけ早く伝えたいという思いから、離婚届を出した後すぐにメールで 伝えようかとも思ったけれど、これってメールで伝えるようなことじゃない ような気がするのよね。それで年内に話すことができればいいのにとうじうじ考えていたら、数日後 に根本さんから『除夜の鐘を聞きに行きましょう』とのお誘いがあり、何と か今年中に報告できそうな予感。大晦日になり、私たちは約束通り近隣のお寺《本能寺》に向かった。歩きながら道々、私は真っ先に 「実は先週夫の所へ行って離婚届を受け取り、月曜日に市役所へ行き、 出してきました」と、離婚が成立したことを話した。 「ちゃんと受理されましたか?」「はい、思ったよりあっけなかったです。 家を出た時は、いつかはっきりと離婚が決まって届けを出す日がきたら、 未練なんてこれっぽっちもなくても、多少感傷的にはなるのかもしれない って思ってました。けど、そういう感傷的になんてちっともならなくて、さっぱりとした気持ちむで役所から帰って来れました。たぶん根本さんのお陰だと思います」「なら、良かった。 じゃあ今からあなたのこと、下の名前で呼ばせてください」「はい」「美鈴さんも僕のことは圭司《けいし》と呼ばないと駄目ですよ」「はいっ、が……頑張ってみます」「うれしいです。あなたにしがらみがなくなって。 これでお天道様に恥じることなく付き合えますからね」「はい……」私は心の中で彼に謝罪した。『ごめんなさい。一度、他の誰かと結ばれてしまった身で』と。これは心の中でずっとこの先も思い続けると思う。だけど、彼に言うつもりはない。 こんなことを言ってしまえば、彼を嫌な気持ちにさせるだけだと思うから。 私が結婚する前に私たち、出会えれば良かったのに。だけど、欲張ってはいけないのかもしれない。 出会えてなかったことを考えてみれば、こんなふうな再会になったとはいえ、 今生で今からでも夫婦になれるような形で出会えたのだから。 しみじみと感傷に浸